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■毎日新聞 2005年6月7日 鶴見味百景 沖縄料理店「石敢當」より
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知念栄プロフィール
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◇料理彩る客の歌声−−ここが第二の人生舞台
シーサーが乗る赤瓦屋根から、赤と青に染め分けたオリオンビールのちょうちんが下がる。カウンター席に半身に座った客は泡盛を傾けながら三線(さんしん)を奏で、音色に身を委ねる。京急鶴見市場駅近くの沖縄料理店「石敢當(いしがんとう)」は、出稼ぎ中にオイルショックで会社が倒産、失意のうちに沖縄へ戻った店主の知念栄さん(63)が、再び神奈川の地で開いた店だ。
知念さんは1942年、那覇から東に15キロ、中城湾に面した佐敷町で生まれた。終戦直後、米軍が残したかまぼこ屋根のトタン兵舎を50人の大人が担いで運び、小学校の校舎代わりにしてくれたのをよく覚えている。実家は市場に豆腐や餅を卸していたが、那覇と佐敷を結ぶ「客馬車」の停留所が自宅の目の前にできたため、食堂兼旅館を営んでいた。
本土復帰前の沖縄。家業を手伝いながら地元の工業高校を卒業した知念さんは仕事を求め、パスポートを手に“日本”に出稼ぎに出た。大阪で溶接工事、東京でバーテンダー。中学を卒業して一足早く集団就職した“金の卵”の誘いを受けるたびに全国を駆け回った。
「図面を引いてくれないか」。60年代に入り、大和市南林間で鉄筋工事を仕切る知人に誘われた。長い仕事になると直感し、妻と子を呼んだ。沖縄出身者だけで40人が集まる大所帯。10年間必死に流した汗で、会社は着実に大きくなった。だが、高度経済成長に終わりを告げたオイルショックに見舞われた。景気の悪化で、会社は倒産。従業員はバラバラになり、知念さんは沖縄に戻った。
旅館業に専念していた知念さんのもとを、5年前、懐かしい顔が訪れる。「手伝ってもらえませんか」。倒産後も鉄筋工事の仕事を続けていた後輩だった。後輩の頑張りに応えたい。再び神奈川の地を踏み、会社を軌道に乗せた。
1年前。知人から「鶴見の沖縄料理店を継がないか」と誘われた。「これも縁だ。旅館で学んだ料理の腕を生かせる」と二つ返事で引き受けた。鶴見を第二の人生の舞台に決めた。
石敢當の沖縄料理を彩るのは、三線の音色に合わせた知念さんや客の歌声。ウチナンチュー(沖縄出身者)にヤマトンチュー(本土出身者)。三線の講師も務める知念さんを慕う客はさまざまだ。人とのつながりでここまで来た。これからも店が人とつながる場になる。
「これまで苦しいと思ったことはなかった。けれど一番幸せなのは今かな」
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